生活科12回 山口 丕些子 | 私の歩み 母校との絆に育まれ
resize0164(1).jpg  

私は、昭和37年の卒業生です。卒業後は他大学の専攻科に進み、終了後は両親の強い要望もあって故郷の北海道へ帰り、函館市内の病院で栄養士になりました。

そして昭和40年、両親の願いを余所に八王子市に就職と結婚の縁が同時にあり、以来38年余り60歳の定年退職まで学校栄養士として勤務することになったのです。

昭和40年と言えば、母校の生活科が八王子の地へ移転して来た年です。私はここで再び母校の先生方とお遇いする機会を得られました。学校栄養士としてスタートをきった私には、先生方とお会い出来る「戸板栄養士会」は何よりも心強い一時でした。先生方の含畜のあるお話、先輩方の力強い体験談、栄養士同士による職場の話など、仕事への責任感と愛情、人間関係の重要さなど、そこで学ぶものは多く同窓の誼みであることに感謝と安心感がありました。

千草会の前会長は、「やさしさと思いやりは絆を強くする」と言っております。正しく私は、この先生の言葉を頼りに心の拠り所として今日まで栄養士を続けて来られたように思います。

私が学校栄養士になった頃、八王子市の学校給食は開始間もない頃で、実に多くの問題や課題に取り組み、乗り越えようとしていた時でした。合成洗剤問題、石鹸への切り替え対応、輸入食品や環境ホルモン・遺伝子組換え食品の研究、食品添加物の食への安全性、安全食品による手作り給食、米飯給食の実施、民間委託問題、O-157食中毒事件、アレルギー問題、そして最近は栄養教諭免許取得による「食育」の実践など、仲間と取り組んだ仕事は沢山ありました。私は常に研究や体験を通じて「食育の実践」が出来る栄養士を目指して仕事を続けて来ました。

さて私は、定年退職後素晴らしいご縁に恵まれて、母校で「給食管理実習」の授業を担当し学生達と関わることになりました。周りから支えて頂いたやさしさや思いやりは何にも増して有り難く、感謝の気持ちで働くことが出来ました。これこそが同窓の誼、充実した5年間、願ってもない貴重な仕事をさせて頂き私の心の財産となっています。

そして母校が四年制大学の検討を始めた頃、私は退職しました。予てから学んでみたいと思っていた東洋思想の「薬膳」の勉強を始め3年かけて「漢方薬膳師」を修めました。こうして現在まで、仕事を通して多くの人達に力を頂き、助けられてやって来ました。この先も母校との絆を大切に思い、精進を重ねて行きたいと思います。

 

被服科30回 高橋 昌代 | 三回目の成人式を前に
resize0165(1).jpg  

今、蓼科は紅葉の素晴らしい季節で、夜には満点の星がきらめいています。結婚して間もなく蓼科に移り住み、かれこれ34年、畑と庭を苦しみながらも楽しみ、夫婦でレストランとコテージを営んでいます。

散歩に行っては草花を摘み、糸を染めたり、織ったり、木の実や蔓を採ってきてはドライフラワーにして、リースを作ったりしてきました。庭先にある自然すべてが私をわくわくさせるおもちゃになりました。

子供に手がかからなくなったら、東京に習い事に行こうと決めていました。やり残した染と織をもう一度勉強しようと思っていました。ところが、縁あって花のアレンジのお教室に誘われ、楽しい仲間と出会い、英国までガーデン巡りに行くほど夢中になりました。ちょっとかじるつもりのパッチワークも色彩感覚のすてきな先生に出会い、大作にも挑戦し、孫達のためにベビーキルトも作りました。カルトナージュ、トールペイント、藤細工等々。気になる事はみんなやらせてもらいました。考えてみると、みんな手作業でした。

40年近く前に大きな夢を描くわけでもなく、織物に興味があっただけでもなく、織物に興味があっただけで戸板の手工芸クラスに入りました。手工芸全般をかじっただけですが、学生の時に勉強した事が今の生活に活かせるなんて思ってもいませんでした。今ではそれが自分の人生の大きな軸になり、生活のスパイスになっていると実感できるようになったのは、今日このごろです。

主人は畑で野菜を育て、庭の草花は私の担当。すべてレストランの食材になり、花々は食卓の彩りになり、余すところなく使いきっています。理想の形ですね。本人達は必死でやってきましたが、これからは少しゆっくり、味わって暮らして行きたいです。

現在、私は蓼科の気候に合っているドライフラワーのアレンジを製作・販売・お教室を本業の合間にやっています。私の大好きなアレンジをする先生の所でレッスンを受けています。そのための上京も楽しみながら・・・。

お客様の笑顔と季節の移ろいを感じながら、好きな事・好きな物にかこまれ、60・70・80代と手仕事しながら暮らしていくのだろうと思います。かわいいおばあちゃんになるために、手先と笑顔を磨いていこうと思っています。

 

 

国際コミュニケーション学科11回 河田 知子 | 戸板短大から未来を描く

 

resize0170.jpg  

戸板短大を卒業し、早いもので5年の月日が経ちました。時々、短大で過ごした楽しかった日々を思い出し温かい気持ちになります。

授業には、長い会社員生活で得られた知識とは全く別の、今まで知らなかった知識を学ぶ楽しさがありました。久しぶりに手にする辞書や筆箱に、学生である幸せを感じ、自宅でする予習や復習もとても新鮮でした。勉強って、こんなに楽しいものだったのかと、改めて実感しました。お昼休みに教室で学友たちと取る食事、帰りの電車でのおしゃべり、皆でスカイツリーを見ながらホテルで食事をしたひと時、たくさん写真も撮りました。孫のような世代の人たちと一緒に過ごしたのに、全く違和感を感じる事もなく戸板での2年間は、本当に本当に楽しい2年間でした。

私は戸板高校を卒業して入社した会社で、結婚、出産を経て定年まで働きました。昭和40年代に入社し、定年まで女性が働くケースというのは、民間企業ではとてもめずらしい事だったと思います。当時は、子供を持って女性が働き続けることはまれでした。しかし、良き上司や同僚に恵まれ、会社のおおらかな社風にも助けられ、保育園に子供を預けながら働いて来ました。勿論、仕事が楽しかった、という事が大きかったのですが、会社には恵まれたと思います。会社で積んだ貴重な経験は、今の自分の礎になっています。

定年からさらに1年働き、61歳で退職しました。退職後、手に入れた自由な時間を充実させたいと考え、結局学校に行くことにしました。その時真っ先に考えたのは、戸板に戻ることでした。心の深い部分に、戸板への愛着があったと思います。家族はみな4年制の大学を勧めましたが、定年をいくつか過ぎた年齢だったので、4年間通うことに自信が持てなかったこともありました。それでも、戸板を選んだことは正解だったと思っています。

戸板で勉強の楽しさを十分に味わうことができたからこそ、卒業後4年制の大学へ編入し勉強を続けようという気持ちになりました。ご指導いただいた多くの先生方のおかげであり、同じ時間を共有したクラスメートの方々のおかげでもあります。こんな楽しいことを2年だけで終わらせてしまうことが残念で、編入を決めました。

さらに時間が経ち、今は大学院に通う身となりました。大学院では国際協力や国際政治を勉強・研究しています。短大、大学と重い鞄を抱えて、よく4年間頑張ったなと自分でも思うのですが、まだ今でも重い鞄を抱えて通っているのです。

仕事をしていた時は、自分が将来大学に通うことになるとは考えていませんでした。もともと将来を計画的にデザインする程の計画性はありません。どちらかと言うと、その時その時でベスト又はベターだと判断した道を生きて来たように思います。

入社した会社にも何らかの必然性があった訳ではありません。会社が自分に合っていたのか、担ったいくつかの仕事が自分に合っていたのか、それは今でも分かりません。自分を仕事に合わせて行った、という方が正解かも知れません。自分に合う仕事、向いている仕事、それを追求することは意味のある事です。しかし与えられた仕事をきちんと成し遂げるその責任感が次の仕事を呼び、さらに仕事の世界が広がる、自分の意外な能力に気づく、という事もあるのではないでしょうか。

今仕事をしている若い方々には躊躇せず、様々な仕事に挑戦してほしいと思います。どのような仕事もやってみれば案外うまくできるものです。なぜならどのような仕事も誰かがやっているのであり、誰かができる仕事が「私」にできないはずがありません。

私にとって、今は論文を書き上げ大学院を無事卒業することが最優先事項ですが、その後はどんな仕事をしようか、今度は何を勉強しようか、この年齢になっても、あれこれ将来を思い描いています。戸板に戻って勉強を再開したことが、未来の希望へと繋がっています。                 2018.9.28